あおさです。
本日業務で後輩を指導しているときに妙な感覚に陥りました。
気持ちいい、のです。
それは、相手が知らないことを知っているという優越感、自分は相手よりも多くを知っているという自負、自信。
これまでの自分が積み上げてきたものを顕示する感覚。
これまで、あおさがやられて嫌だったことを今度は自分が指導する側になったとたんに、こうした感情に支配されそうになりました(最初支配されていたと思います)。
他の人の指導をみていると、窓際の席でそこまで詰めなくてもよいのでは、その自己顕示はダサい
そう思うことがよくあるが、自分がやる側になったらそう思っていてもアクセルを踏みかけました。
情けないが、これはある種の人の心の真実だと思う。
大抵の会社員は、ある機能の一部を担っているにすぎない。
そこにプライドや自負を持ちながら、それでも認めて貰えることもなく仕事をしている。
そんな中で自分と同じ境遇の後輩を指導する必要がある。
自分のやったことを教えよう、できるようにしよう、何故できない?
この簡単なことが、自分のように。
こう考えてしまいました。
だが、あおさが逆の立場で指導されるときに思った、進行形でも思っていることは以下で
正論だけ言わないでくれ、なんでそこまで上から人を詰められるのか、YESだけとりあえず言っておこう、逆らうのをやめよう、とにかく耐えよう
こうした経験を実際にしていても、指導する、されるというポジションにはそのものの関係性がサドを含んでいるため、簡単に暴走することを体感しました。
また、学生のときに読んだ
スタンレーミリグラム 服従の心理
スタンフォード監獄実験
を思い出しました。
アイスマン実験では、責任を放棄させて命令を与えると人はそれが残虐なことであっても自己を肯定して受け入れてしまう傾向があること
スタンフォード監獄実験では、
肩書きを与えて、非個人化、狭い空間に限られた人数でいると肩書きをより強化しあって権力をより誇示するようになること
がそれぞれわかった(あおさのぼんやり記憶)、職場でも充分に適応されているのではないかと感じました。
ニーチェの「The abyss gazes also into you」とはい言えて妙です。
ヒエラルキーの構造上で、誰でも徐々にそして気持ちよくパワハラし得ます。
そうならない為に、何ができるか。
まずは、第三者の目を常に自分自身で持たないといけないと思います。
上位者を止めるのは普通の人はできない。強烈に自分を支える自信、アニマルスピリットを持つと同時に、同じだけ自分を否定する謙虚さ、理性を持ってそれぞれを相反し続ける心の強さが必要と。
プライドと謙虚さの両立の難しさについても、今度記事で書く予定です。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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